清昌寺の縁起
清昌寺の創建
笠原陶祖が幸せを願い建てた草庵。時代の流れと共に、いまに至る
清昌寺の創建は、元和二年(1616年)と伝えられています。開基である笠原の陶祖、加藤治郎太夫は、窯業の繁栄と子孫の幸せを願って、虎渓山永保寺より白嶺清公禅師をお招きして小庵を建て「白雲山清昌寺」と称し、念持仏であった十一面観世音菩薩をお祀りして祈願せられました。
寛永年間、幕府の寺院政策「本末制度」の徹底により、清昌寺二代目、星峰衣南禅師は、天和元年(1681年)に、本寺である妻木の光雲山崇禅寺第六世、北隠宗秀禅師を勧請開山としてお招きし、正式に崇禅寺末となり今日に至ります。
清昌寺の歴史
お寺の歴史を知ると、その土地の歴史が見えてくる
元禄八年(1695年)には、「土岐三十三所巡礼集」の第二十番に選ばれ、
「頼めなを しめしが原の さしも草、 さしもかしこし 笠原の寺」 と記される。
宝暦四年(1754年)、清昌寺五代、恭堂儀公首座の時、つり鐘の鐘銘を、崇禅寺九世、理山宗菊禅師に依頼。
安政年間(1854~1859年)、それまでに幾度か焼失し、清昌寺十代、琥巌宗珀和尚が方丈・庫裡を再建。
江戸末期、住職の留守をねらい、境内の松や樹木、寺領の山竹林が荒らされたり、田畑の年貢が未納であったり、年忌や仏事、追善供養の届け出も一向に無いなど、ひどく寺が荒れた状態が続きました。
文久二年(1862年)、亡寺になることを危惧した本寺の崇禅寺は、洞組(現在の富士区)の檀家に厳しく言及したという。洞組の檀家一同はひたすら謝り、以後は心得違いのないようにするのでご勘弁下さるようにと、「御詫規定一札之事」という詫び状を入れたという事件もありました。
その後、清昌寺は・・・
厳しい時代を乗り越え、戦後の高度成長期と共に、寺門興隆、愛山護法の信仰を得る
明治、大正、昭和の戦時中と厳しい時代の中で、清昌寺十三代の友室益庸長老と、十四代の献堂宗源和尚は、生活は貧しく苦しいながらも、大般若経六百巻や什物等を揃えるなど、一生懸命に寺門興隆に努めました。
昭和の戦後まもなく、笠原の窯業は、茶碗・タイル生産の‘復興の炎‘をあげ、町には活気が溢れてきました。それに伴い清昌寺は愛山護法の念を受けて、多くの檀信徒の信仰を集め、少しずつ伽藍も整い今日に至りました。
近年の清昌寺の沿革
昭和22年6月
鐘つき堂を改修。
大鐘を新調。鐘銘は名古屋徳源寺の萬密老大師。
昭和34年9月26日
伊勢湾台風により大きな杉の木が位牌堂に倒れ半壊。本堂の窓ガラスは全て割れ、法鼓が境内の外まで転がり、庫裡の屋根瓦が吹き飛ぶなど、甚大な被害を受ける。
昭和37年
庫裡の屋根を修復。
仏天蓋(平野瑤珞製作)、加藤みよ子殿寄進。
昭和43年
檀信徒の愛山護法の信仰により本堂再建に着手し、2年有半の歳月と、当時の金額で四阡萬圓ほどの浄財と特別志納を以て、本堂ならびに位牌堂を再建し、書院と回廊を新設。さらに、庭園「月清園」や境内の造園の美を整えて、清昌寺の景観を全く一新。(清昌寺十七代、勝道普門和尚)
昭和45年10月10日
上記完成。妙心寺管長637世、梶浦逸外老大師を導師に拝請し、落慶式を厳修。
昭和51年4月
本堂前に大悲観音像(永代合祀塔)を建立。
昭和53年
白雲の森広場を整備。
昭和56年
白雲の森広場に六角観音堂を新築。
水子観音、人形塚を建立。
昭和57年
第十八代、宏洲宗勤和尚晋山。
白嶺庵を改築。
昭和58年暮れ
本堂正面入り口の改築。
本玄関ならびに圓通閣大方玄関を新築。
昭和61年
歴代搭、三十三観音の整備。
昭和62年
書院に貼案場を新設。 (櫻井建設)
境内に休憩所あずま屋を新設。
平成3年4月
先代七回忌の折、隠寮を新築。 (櫻井建設)
平成5年
大駐車場を完備。
白雲の森広場にペット供養塔の建立。
平成10年
六地蔵の移設。
平成11年11月
研修道場「普門閣」を新築。 (AK設計)
半跏地蔵菩薩修復。
平成15年
道路の開通と共に、第二駐車場を完備。
笠原交番の建設にあたり、その土地に鎮座していた五輪様を清昌寺に移設。
平成21年春
山門を建立。(今井建築)
今井ミツエ殿寄進。
平成24年暮れ
本堂の屋根瓦を本葺き瓦に修復。 (伏見窯業)
位牌堂床板修復。 (田口建築)
山号額を修復。(箔押師 杉浦晴義)
平成25年10月
仏天蓋・常華のクリーニング修繕。 (ヨコイ屋仏壇店)
一般用玄関・展示棚を増設。 (中島建築)
12月 本堂、書院など合わせて約150畳のたたみ換え。(吉田畳店)
平成26年4月5日
第十九代元堂全和和尚晋山。虎渓山永保寺、萬仭軒 田中義峰老大師をお招きし、諸堂落慶法要を厳修。