清昌寺の歴史ミステリー


謎は深まるばかり、真実は誰も語れない

一、「虎溪山末寺 白雲山清庄寺」説

この清昌寺にまつわる謎は、開基である笠原陶祖の加藤治郎太夫の系図(三)中興先祖、に記されている治郎太夫についてのコメントの一文に始まった。

「前文略。此所ニ庵地(あんち)ヲ建立シテ、白雲山清庄寺ト号スル也、現住ハ清蔵司(せいぞうす)ト云リ、虎溪山ヨリ初テ入院ス、因茲(ちなみにここ)虎溪山末寺也ト云、之(これ)実ニ云、年号元和二年也ト云爾(しかいう)、以下略」

この記述によると、元和二年(1616)、白雲山清庄寺(現清昌寺)という「村の寺」を建立した。そもそも江戸時代初期の「村の寺」は「在家(農家)とも区別し難き小庵にて・・・」と言われたように、清庄寺も草葺きのまこと小さな庵であったのだろう。
そこへ虎溪山から、清蔵司という(後に「白嶺祖公首座」「白嶺清公禅師」などの名が贈られている)僧を招いて住職とした。清蔵司は過去帳によると、年齢は不明であるが、寛文三年(1663)遷化となっている。そこから考えると、当時は二十歳前後の若い修行僧であったと思われる。
清庄寺は「虎溪山ノ末寺」とあるが、これは誇張的な表現で、記録として残されている虎溪山末寺の中にも入っていない。当時の「村の寺」に本末寺関係はなく、「本末制度」が徹底するのは元禄時代に入ってからである。
清庄寺の庄の字については、なんとも言い難い。耳で聞き、言葉で伝わって来た場合どちらも(しょう)であり、陶祖の治郎太夫の位牌にも治良太夫と書かれていたり、石碑には治郎太夫であったりと様々である。



一、「正法寺という寺が実在した」説

明治四十三年(1910)、妻木崇禅寺十四世、円陵宗覚禅師が清昌寺住職を兼務していたその時、次のような「寺籍調査表」(開創由緒)を県へ提出している。

「土岐郡笠原村字平園正法寺(しょうぼうじ)ト云フ寺有リ、年号不詳、度々焼失セシ由、古老ノ口碑ニ云フ。土岐郡妻木崇禅寺(注)五世北隠和尚、天和元年辛酉(かのととり)年、富士下ヘ移転再興、白雲山清昌寺ト称ス。」

ここには前に述べた加藤治郎太夫創建説とは全く別の、もう一つの由緒を挙げている。
明治四十年代の古老の言い伝えによると、正法寺が焼失したので移転して再興し、清昌寺と改称したというのである。しかし、それを証明するような資料は他に存在しない。
ところが、平園地区に正法寺山と呼ぶ地名が残されており、昭和年代に入ってからも、正法寺跡の墓地と思われる所から人骨が見つかったと言われている。正法寺は確かに実在した寺であった。
(注)「崇禅寺史」には北隠和尚を六世としているが、五世とされた珉龍和尚はすぐ亡くなったので、北隠和尚を五世とも呼んだ。



一、大本山妙心寺の山号と同じ「正法山清昌寺」説 

元禄八年(1695)に「土岐郡三十三所巡礼集」が出されており、土岐郡三十三か所の寺名や歌が載っていた。

第二十番 笠原郷 正法山清昌寺 聖十一面観音
「頼めなを しめしが原の さしも草、 さしもかしこし 笠原の寺」

そこには、清昌寺の山号が‘白雲山‘ではなく、‘正法山‘となっている。
この「土岐三十三所巡礼集」は初め木版刷で出版され、序文を久尻村の清安寺和尚が書いたものであるが、編者がすべての寺の山号を覚えていたとは思えないので、寺々に確かめて書いたものもあろう。当時の清昌寺住職の二代目、星峰和尚も「正法山清昌寺」として出版されることを十分に承知していたと思われる。
妙心寺派の本山が正法山妙心寺であるから、それに倣ったとは言えなくもないが、古老の言い伝えも考慮に入れると、それだけではないとも言えそうである。北隠禅師の開山年を仮に天和元年(1681)とすれば、「土岐三十三所巡礼集」出版の元禄八年は、その十四年後のことで、北隠開山の時点で正法山清昌寺であった可能性が強い。
また「土岐市史」によると、江戸末期の村々明細帳の中に「妻木崇禅寺末 正法山清昌寺」と記されているという。江戸末期にも正法山は生きていたのであった。
しかし、十七世紀から十八世紀の初めごろ書かれたと推察される、加藤治郎太夫の系図には前途のように、白雲山清昌寺となっており、明治初年の庄屋の報告文書にも白雲山となっていて、白雲山と呼ばれていたことも事実である。



一、「正法寺と清昌寺の融合」説

‘正法寺が実在した説‘の「寺籍調査表」の記述にあるように、正法寺は「度々焼失セシ由」ということだから、その度に再建してきたのであろうが、また焼失してしまったので、ついに新しい土地に移転して再建した。しかし寺名を清昌寺に変えたとすると、全く別の寺になってしまい、正法寺の再興とは言えないことになる。
清蔵司が初代とされる小庵の清昌寺も、何十年の間に荒れ果ててしまった。たまたま平園の正法寺も焼失していて、再建は困難な時期であった。
そこで、清昌寺の檀家組と正法寺の檀家組がひとつになって、清昌寺を再興したのではなかろうか。そのために、白雲山と称していた山号を、正法寺の正法を採って‘正法山‘と改めた。ところが、いつの時代かに白雲山に戻ってしまったが、正法山も一部の人たちの中で生き続けていたと考えられないこともない。
そもそも村人の中で、寺の山号まで覚えていた人が何人いたであろうか。清昌寺の住職にしても、無住の時代があったから、山号が正確に伝わっていたかも解らないのである。
以上のように考えると、正法寺と清昌寺の言い伝え、二つの山号の謎も一応は解けるわけではあるが、これはあくまで一つの推測でしかない。

この清昌寺歴史ミステリーの解明を、今後の研究に期待したい。