かさはらの歴史物語「五輪さま」

むかし、むかし、源氏に木曽義仲という強い大将がいた。
この人は木曽の地に旗揚げをして京都へ攻めのぼり、平氏をうち破った功のより、征夷大将軍に任ぜられたほどの立派な大将じゃった。

その木曽義仲が京都へ攻めのぼるときに、家来の樋口次郎兼光という武将がこの笠原の里を通ったそうじゃ。
このときに通った山道のことを「樋口ヶ嶺」とか「源氏まがり」とか昔の人は呼んでいたそうじゃ。
今でもその地名は残っているが聞いたことはあるかな?

さて、この樋口次郎兼光についてはこんな話がのこっている。
大勢の軍兵どもをひきつれて笠原の里に、一夜の陣をしいた時のことじゃ。
今、「木曽畷(きそなわて)」とか「横幕」と呼ぶところがあるが、そこに兼光は、横幕を張り巡らし赤々とかがり火をたいて、主な家来たちと作戦を練った。そして一夜の宿をとったというところから、「木曽畷」とか「横幕」という地名がついたそうじゃ。

さて兼光は、笠原の里に来るまで平家方との合戦で多くの家来を死なせてしまった。そこでこの横幕の地に小さな塚をつくり、その上に丸い小さな石を積んで、
「今は戦いの最中ゆえ、塔とて立ててやれぬのが残念だ。これで我慢してくれよ。」
と家来の霊に野の花を供えてしばし合掌し、はらはらと涙を流したそうじゃ。

次の日の朝早く、兼光は京都に向かって進軍したが、その後大津あたりの合戦で華々しく戦い、武運つたなく討死したということじゃ。
風の便りでそれを聞いた笠原の里の人々は、兼光の家来を憶う心根のやさしさと自らも遠い他国の地で散り果てた最後をふびんに思い、兼光ゆかりの地であるこの横幕に五輪の塔をたてて懇ろに兼光とその家来たちの霊をとむらってやったそうじゃ。

村の人々は、これを「横幕の五輪さま」と呼んで長く供養してきたそうじゃよ。
(「かさはらの昔話」より)

2012-09-24 15.22.46



木曽義仲
20140409230028[1]

木曽義仲(きそのよしなか)は源義仲と言い、幼少の頃から木曽の中原兼遠にあずけられて育ちました。
義仲が成人した後、鎌倉の源頼朝が平家追討の兵をあげると聞き、頼朝に負けてはならじと一足先に木曽で平をあげ、越後路、北陸路を進んで平氏を打ち破り、京都に入って征夷大将軍となりましたが、源頼朝の命を受けた源義経に追われ、大津の近くの粟津原で戦死しました。
旭日将軍とも呼ばれ、源頼朝や源義経は従兄弟にあたります。

 

樋口次郎兼光
100-5184[1]

樋口次郎兼光(ひぐちじろうかねみつ)なる武将は、木曽の豪族、信濃権守中原兼遠の子息で、信濃国伊那郡樋口の城主となってから、樋口次郎兼光と名乗るようになった。
兼光は木曽義仲の妻で、男勝りと言われた巴(ともえ)御前の兄にあたります。
兼光は今井四郎兼平、根井小弥太幸親、楯六郎親忠とならび義仲の四天王の1人として武勇の誉れ高かった人であります。